二歩サガリ。。

同い年より、2才年下、二歩サガリ。 

夢を見る僕と僕の話

 僕はむかしから寝るのが好きな子供だった。

 日中に干してふかふかでぽあぽあする布団が大好きだったし、寝ている時だけみることができる夢の世界はどんな映画や本よりもドラマティックでエキサイティングに感じた。

 小学生の僕は典型的な早寝遅起きだったで、夜の10時が活動限界だった。そうするとなにが起こるかというと、金曜ロードショーで放送されている映画が最後まで見れないのだ。ジョン・トラボルタがどんなに派手な戦闘シーンを繰り広げていようが、パズーがどれだけ「シーター!!」と叫ぼうが、10時を過ぎた時点でもう僕の脳みそは新たなる夢の世界へと旅立ってしまっていた。

 当時の僕はこのことをたいへん残念に思っていた。でも、いつかは自分もおとなになり、どんなに夜更かしをしても元気マンマンな体になるのだろうと確信していた。だからこそ、まだこどもである自分はおおいに寝て、今後体験するであろう深夜の時間に耐えうる強靭な体をつくり出そうと自分に言い聞かせて眠りについた。

  僕の見る夢は大抵ちゃんとストーリーができていた。もちろん朝起きてから思い返すと、いつの間にか登場人物が入れ替わっていることに気づいたりはするが、大筋での流れはちゃんと物語の体をなしていた。だから、僕が見ている夢をどうにかして映像や文章として現像することができたとしたら、僕は間違いなく大物原作者になれるだろうと小学生の僕は本気で思っていた。

 よく夢のはなしで聞く「空をとんだ」とか、「ひたすら下に落ちていった」とかいう疑似体験的な夢はほとんど見たことがなかった。どちらかと言うと、夢の中の僕は神の視点で物語を見ていることが多く、それが時々、主人公的な僕と行ったり来たりすることがある程度だった。

 定番の舞台というものもある。登場人物や物語の内容は異なるのだが、何度か同じ舞台(場所)のなかで物語が進行していくということがあった。おそらく一番登場回数の多かったのが昔通っていた幼稚園の校舎が舞台の夢である。しかも、なぜか実際の幼稚園とは若干間取りが異なる建物で、この舞台の時は大抵ホラーかバッドエンドになってしまう。覚えていないが、どうやら僕の深層心理には幼稚園の2階のトイレに何らかのトラウマを抱えているらしい。

 今、アラサーに片足を踏み込みつつある僕は、相変わらず寝ることは大好きだが夢を見ることは少なくなった。むしろほぼ無いと言っても差し支えない。おそらく寝ている間に脳は稼働しているのであろうが、朝にはすっぱり忘れ去ってしまっている。

 もう一度、あの頃の様な毎日今日は一体どんな夢が見れるのかとワクワクしながら布団に入る日々を体験できたらどうなるのであろうか。毎日が楽しくなるのだろうか。それもとも、現実から目を背け、夢の世界に入り浸るかのように睡眠の欲に溺れていくのだろうか。

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